学校のものと通信

成長発達を妨げます。

日本人が心理学上の用語としてイドとかエスという用語を使うといかにも学術専門語に聞こえますが、もとは俗語といっていいような日常語で、いわば、心の中に平生隠されているものが、むらむらとわきおこる。我欲といっらいいか。これをリビドー原衝動とも言いますが、
それ、それ、つまりそれのことというような具合のそれ=itのことなんですこれはであって、専門用語では欲動と翻訳されていますが仏教のほうのと同じものなのです。自我ではありません。自我ではないのです。
自我の区別のつかないのが、いつから当たり前になったのでしょうか。フロイトはあの世で泣いているでしょう。
保育園児約百名を対象


超自我
の対立葛藤をとりなす自我
神戸のあの怪奇な事件を起こした少年は新聞社に送りつけたおどろおどろしい手紙に自分の中に自分とは違う恐ろしい自分が時に頭をもたげてくるといったふうの文章を書いていました。あれに只ならぬ戦慄を覚えたというひとが多く、現代のの捉え方の混迷を示すシンボリックな出来事だと思います。

子供たちがお手伝い


子どももついつられて

あの事件以来、未成年の異様な犯罪が続いてあとを絶ちません心の闇というようにを分からないものだと捉える向きが一般に強すぎて、
の捉え方がまるでフロイト以前、つまり百年前の混迷時代に戻ってしまったのかと思うぐらいです三つの心とは
超自我
と、そして自我
なのです人の心は、超自我とが対決しあっていて、TPOその時その場の状況応じて、今はを強めに出してよし、とか、ここは超自我で頑張るしかない、とかを自我が取り決める、というしくみになっています。
勉強についてもただ

伸びる面のあることがわかったのです。

誰もが持っている心のしくみですつまり超自我がともすればつっぱりあい、その都度自我がここはの勝ち、ここは超自我の見せ場、と両者の仲をとるのです。超自我
の宿命の対決を、自我が適宜とりなしているのです。
じゃじゃ馬の、ええかっこしたがりの超自我超自我とは、でも異質なのです。右にが頑張っていて、左に超自我が頑張っていますどこま011一つの全体が自分超自我って聞き慣れないですね。原語はスーパーエゴ。このあいだ、中年婦人の中学教員に尋ねたら
チョウ自我?チョウはメチャクチヤひどいことで自我はエゴでしょ。わがままのことですから、超自我は、メチャ自分勝手の意味ですかと問い返されたので唖然としましたね。超自我とはまさにそれとは反対の意味です。


小学校に通うようになる

先生がやってくれてもいい

超自我は単に自分のことで自分を超えた存在、つまり自分以外の人々との関係によかれと気づかう自分のとなのです超自我が強すぎるというのは、人のことを気にしすぎるわけですから、見栄張り、関西では
ええかっこしいになるわけですね。自分以外の全体のことを気にするという向きですから、いわば極左の傾向とも言えます。それと反対なのがを張る、が強いの、つまり強すぎるとわがままになる。まず自分のことをという向きで、極右ですね
r我とr超自我、つまり右と左が対立葛藤しあって、その都度TPOに応じて自我
がとりなし役をつとめるのです。
が自分なのか、超自我が本物の自分なのか。それとも自我が自分なのか。
違います!三つの自分の全体の動き、さに自分なのですね。
そのまるごと全体がほんとうの自分。
子供たちと接触する時間が少なかったのです

子どもの前で感覚表現をすることに慣れること。


子どもに代わって言うことができるものです。

それがま

ストレスを超えるたのしさ

自分が虐待親になりかかっていた·よい子に育てたいと思うあまりにまだ1歳にもならない女にいたずらをして逃げたケンタ君。どうしてこんなに親の言うことがきけないんだろう
といらだって、ひっとらえずにはおれないお母さん。
「なんで、赤ちゃんを叩くの?何度言われたら分かるの!ほんとに悪い子」
険しい態度で叱りつけると、なんともずるい目つきでニヤニヤ笑っている三歳児。どんなに幼いのに、母親の私をすっかりバカにしている!
とにわかに腹立ちがこみあげてきて、自分でも驚くほどの険しさで
ねぇ、どうして?なんで分からないの!
と小さな肩をつかんで激しくゆさぶると、一瞬親に向けた子どもの視線が、に変わっていたのが、ますます母親の度を失わせるきっかけにもなりました。
憎しみの色わが子のそんな目つきが許せず、くいつものことになっていました。
パチパチと頭を叩いてしまう。

  • 子どもに言ってほしいと思います
  • 子どもに添うてやる生活の夜型化
  • 高校に入り直してケンブリッジ