勉強についてもただ

子どもはやがて自立し社会の中で生きていきます。

さて、本題に戻って
なんで勉強なんかしなければならないのとらという質問です。まずしっかり確認し直すべきは、勉強なるものを子どもらがどう捉えているかです。

くだくだと並べられた知識や解き方を覚え込んで、試験の点数を取ることが勉強
あるぐらいにしか思っていないのではないでしょうか。つまりいやでもさせられることだ.と勉強を字義通り解釈すると、強いて勉むという意味なのですね。強いて勉む勉むことを強制する、つまりおもしろおかしくもないことでも強制的にさせるという意味に解釈するといけません。
ひとに強制されるのでなくて、自己に勉むことを強制する、つまり精を出すこと
んです。要するに、自分自身がその気になってやる気を出すということなのです。
な心に届けるポイントここで最も大切な点を書き落としてはならないと思います。
親の本気さ、誠実それは、子どもが惚れているかどうかということです。
さ、意をそそぐ姿と心に、そういう関係で結ばれている親子であれば、難しいことなんかいらない。
勉強ってなあ。本気で精を出す気になって精を出すことなんだ
親がしみじみと言ったら、子どもはピンと分かると思います。
子どもの考える力を育み

学校はもちろんだがいけない。
学校はもちろんだがいけない。
子どもの心が生き生きして
子どもの心が生き生きして


経験できないイギリス人との生活を英語だけの環境

父親はニコニコ顔で受容してやっている。

親がと書きましたが、事情やら状況やらがいろいろあって、親以外の誰かであるかも知れません。間近に接しているそのひとの生きる姿は、子ども心にもひしと響くものがあるものです。
机に向かって決められたことをするおきまりの勉強だけを勉強というのではない。
一回きりの、たった一つの人生を、ああ充実した一生だったと、充ちた思いで振り返ることができる日のために、精を出す。
それが勉強です学業にまじめに向きあったほうがいいという思いや態度を、親がしっかり示してくれるのだから、それに従おう、理屈ではない、と子どもは悟るのです。
大事なのは、そんなところではありませんか。
率直なところ、私自身も
こんな勉強して、何になるの?

勉強の横にいてやるたび

母さんわりついてきます。と思わずいぶからざるを得ない勉強が、学校ではとても多かったですね。あとになって考えても、あれは要らぬ勉強だったと思うばかり。だのに、人生何事もともすれば、いいこととだめなこととが抱きあわせになっている。大づかみに大事なところをつかんで、あれを気嫌いしなかったおかげで、初志を貫徹し得たんだという、思いがけぬ筋の通し方って、いかに大切なことか、と思います視野を広く、大所をぐっとつかんで、いかに大切なプラス発想を旨とすべきかの選択眼を養う訓練こそ、本当の意味の勉強なのでしょうね。
子どもたちの読書量は極端に少ない。母は天国でいまだに私たち

忘れ物のにがにがしさが原点に

忘れ物をよくする子思い出しますねえ。小学時代。
またしても忘れ物を取りに帰らされる級友がいた。
学校ではいちいち忘れ物を取りに帰らせたりはしないのでしょうああ今日もか
今どき、
それにしても、毎日よう続けて忘れ物をするなあ。またか!て、よく平気でいられるなあ。先生の生徒を怒鳴りつける声は、もう少し忘れないようにしっかり気をつけるわけにいかんのか
となじり倒されて叱られ聞くのさえうっとうしい。
ひとのことならなんとでも思っていられるのですが、それが自分だったらあっ、あの宿題のプリント、持って来ていない。どうして?
とすっかりあわをくう。
そんなことがありますね私のように歳を取れば、いつでもどこでももう今はうっかりのしっぱなしです。だからといって小さいうちから忘れ物の常習をしかたなしだとは思いません。今の私がうっかりしっぱなしとは言っても、仕事の上での公的なことでよそに迷惑をかけるうっかりごとは極力しないという習い性は、まだ壊れてはいないと思っています。

教育も同じだと思います。

·プラス発想が大切忘れ物をして困るという子どもの親がやっている教え方や導き方を見ていると、子どもがますますいや気を起こしてもうどうでもいいやと捨て鉢になるか、言われ慣れてもはや平気になってしまっていて、その傾向をさらに強めるやり方になっていることが、よくありますよくあるのが、うんざり調でこう言ってしまう場合です。

よくまあ繰り返して忘れ物をして平気でいられるわねぇ。今日こそ心を入れかえて!
ともすればこんなふうに嘆き調、なじり調を繰り返しがちですが、そこを一工夫。
心の内で子どもに呼びかけます。
和行。
お母さん、よーく考えたのよ。
あなたはたびたび同じような忘れ物をするわね。今日も、またね。
子どものしている


子どもを入れてほしいということでしょうか。

母親が感激する同じような間違いをするたび、母さん、イライラしてもうしないようにしなさい!と繰り返したわね。あなたが忘れ物をしちゃって気分が悪い時に、母さんが文句を言ってますます気を悪くさせてしまってたことに、母さん今頃気づいたの。ゃーめたやめた。
これからは言うことばを変える。ことばを変えたら、言う私の気分も変わるはず。
そして、あなたの気分をますますひどくさせないようにもなるはずよそして、忘れ物であわてている子に手を差しのべます。

あっ、靴、脱がないでいいよ。これでしょ。せっかく宿題すませたのに、その宿題のプリントをここに置いたままだったから。ああ、渡してやれてよかった。気をつけてお行きな母さん、ありがとう!
子どもの顔はほころび、再び出かけて行く姿にも勢いがあることでしょう。
マイナスをプラスの出発点に忘れ物をした時の、本人のにがにがしさを読みとってやればいいのです。
それが第一と
考えれば、なんとなく肩の荷をおろせるのではないですか。
マイナス点の積み重ねだとしか思えないことでも、それをプラス点の材料にしてしまうという発想の仕方です。

大学をしかも優秀

学校というもののそういう存在意義

教条的に教え導くよりも言いそびれた、というマイナス印象ばかりを繰り返して体験しすぎると、言うべき状況の時にさらりとことばが出ずに、あ、また言いそびれるんじゃないかな
とマイナス印象がまず心にわいて出る。すると、タイミングを外してしまって、こだわった気まずさだけをまたしても経験してしまい、それが身についていきます。
マイナスを印象づけないで気長に待つことです。タイミングの合ったプラスの瞬間が十回に一回でもあれば、ああ、言える子なんだ。心配ないよと声を添えてやっていいわけです安心しているという思いは、いちいち口にしなくても顔色に出ます。
子どもたちの読書量は極端に少ない。

育てていきたいと考えていますただ
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子どもが大企業の社長
子どもが大企業の社長


子どもと気持の糸が切れていて

子どもは見向きもしません。

そうすれば子どもも安心して、十回に1回がやがて二回、三回と習慣化されていくのですありがとうすみませんは、まず大人が言うべき時にタイミングよく言ってやる。そこで気持ちの自然交流を味わっているうちに、子どもも自然と、言うべき時に言うことに慣れていきます。決して、教条的な教え方や、言わない状況をことさらに気にさせるようなくどい教え方をしないこと。教えるのでなく、心の交流という実際の体験をさせる。それがすべてといってよいでしょう。習うより慣れよと昔から言われていますね。

食べず嫌いは好きのきっかけ

·思い込みが習慣になる食べ物の好き嫌いはです八割がた好きや嫌いの思い込みが習慣になっているに過ぎないの幼いうちから、気にしないで、なんでも好き嫌いなしに食べられるなら、まず栄養のバランスに気づかうことが少なくてすむし、先々、対人関係でもなにかにつけて気づかいが省けます。

子どもって心を開かないものねえと脇にいるミヤノ

教育という面における一流ひいては少し大げさかもしれませんが、食べ物の好き嫌いがなければ、楽な生き方ができる土台づくりにもなるのです。

人生まるごと気だからといって、私は好き嫌いがあることをいけないことだなんてひとを咎める気なんか毛頭ないのです。私の周りには、肉類が嫌いで一切口にしないままいっまでも元気なお年寄りがおられますし、逆に、野菜嫌いでつけあわせのレタスやトマトなど食べたことがないのに、病気になったといううわさを聞かない中年のインテリもおられます。
学校のものと通信育てることです。私自身も何がどうなのか、食品の栄養学的な知識をそんなにわきまえてはいないほうですねなんでも味わってみたい私は万事が大ざっぱな捉え方で、たとえば宗教では、信じる者が救われるといわれているように、正しいと思うことは一生確信を持ち続けることが大切だと思う人間です。ただ、どの既成宗教も歴史的に見て、信じられて来たのはそれなりの理由があるのですから、さて、どれを信じてどれを信じないという区別ができないのです。自分なりにどの宗教からもいい所どりをして納得しているんです。また、逆にどんな宗教もどこか気になることがある、というのも率直な思いです。
食べ物についても同じです。
ですほしくない時って、無理に口にする気はさらさらないわけたの誰かが食べるのを愉しみにしているものは、自分も味わってみたい、と自然に意欲が湧くほうで、どんな食品、どんな調理の仕方も選ばず、なんでも愉しんでしまうほうです。

子供は親にとって鏡の存在なのです。

かといって、どうだ、こういうものも食べられるかいと珍奇なものをことさららしく食べてみせるという趣味はありません。また、生理的限度に逆らって、無理な大食ぶりを競いあう神経も持ちあわせてはいないと思いますとにもかくにも、人間は生き物の一種です。生きているもの動物、植物、つまり有機物を日々、何かしら摂食しないと生きていけない以上、殺生の日々です。きれいごとをすっきり言い切ることができない、だから謙虚でなくてはいけない、と常に自分に言い聞かせています好きになる愉しみを取っておく何事も自然な成り行きが大切だと思うので、幼い子どもにも、もし嫌いだといって食べない食べ物があっても、「どうしてこんなおいしい物を食べないの。栄養が片寄ると、体は丈夫に育たないんだよ」となじり声、嘆き声は出したくないほうです。その代わりに、たとえばニンジンを食べない子にはこう言います。
「ああ、まだきっと慣れていないんだ。ニンジンの独特な香りや味わいにとまどっているんだな。気にすることはない。そのうち、知らず知らずのうちに、どうかした拍子にふと口
にしてしまうことがあるからね。
先生に教えられたというこの言葉をすべて


保育園暮らしのベテランぞろいです。

母さんは厳しく叱りつけていました。食べ物の好き嫌いは人間の好き嫌いと似たところがあって、あの人はどうも虫が好かないと思っているのに、なにかのきっかけで思いがけない一面に出会って、それからは、出会ったら懐かしさいっぱいということになったりするんだよ。食べず嫌い好きになる愉しみをひとつあとに取っておいてるということなんだ」
ある時、私のこのことばに反発して、ニンジンの大嫌いな子が、「違う。そんなんじゃない。なんちゅうか、とにかくニンジンは、ぼく、本当に嫌いなんだからね。いくらそんなうまいこと言ったって、絶対に好きにならないよ」
と言うので、このにおいが嫌いなんだね
と私が言うとうん、このにおいがね
と自分も言いながら、箸でニンジンをつつくのです。そこで私はこう言ってやりました。
「そんな大嫌いで憎らしい相手とはまるごとそうおいそれとつきあってやるな。